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  • 2015.03.08 Sunday
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懐素・聖母帖から「氷釋」

先月2月は十年に一度といわれた大雪の翌日で、私は根性で行きましたが、もしどなたもいらっしゃらなかったら自習?でもしようと思っていました。それはそれで良いかなと。
ところがさらなるド根性の方がおふたりいらっしゃって、おかげさまで楽しく過ごしました。ありがとうございました!
 
さて今回は春の到来を感じさせる爽やかな土曜日でした。
懐素という700年代唐の書家の草書をお手本にしました。
懐素は幼少で「西遊記」で有名な、般若心経の訳で有名な玄奘三蔵法師を師に仏門に入った人です。これだけでも非常に興味深い人ですが、あの清廉真面目な玄奘三蔵の弟子でありながらその作風は狂草と呼ばれる奔放自由な書体で、酒を愛し、酔いのままにあたりかまわず書き散らし、しかもそのどれもが世の人が讃えて憚らない名作ばかりだったという・・・
 
それにしても草書は難しいです。今回は特にあることを知っていただきたく、特に抑揚のない部分を選びました。まるで「ひも」のようでよくわからないというのが第一印象でしょう。
実は楷書のように、止める・はねる・曲がる、などがはっきりしているものと違い、一見どこにも立ち止まる所がないので、誰でも最初はこんな字のどこがいいのかと思ってしまいます。しかし書いてみると、グルグルと巻いた「ひも」のような字に見えるのに、ただグルグルと書いてみるとまったくグルグル書けません。筆の性質上、単純にグルグル回すと引っかかってしまうのです。ひものように書くには、実は書法がしっかりできていて、しかもその影を消し去っていくことができなければなりません。
私は去年の講座紹介で「流れるような草書は身体の芯をしっかり修めた後に、全身を柔らかく使って舞踏のように。芸術の一片が生活のヒントになりますよ」と書いておきました。
 
草書はまるで流れる水です。滞りなくスルスルと流れていきますが、実はひとつひとつがきちんとできていて、しかもそのひとつひとつが「どうだ、やってるぞ!」なんていう自己主張をすっぱりと捨ててしまう心でないと書けない、と私は思います。
茶道でもお手前の一つ一つがきちんとできていながら、しかも流れるように行われることを気続点(きぞくだて)と言いますが、日常の様々な事をひとつひとつきちんとやりながらも、無理がなくあっさりと軽やかに跡形もなくできて終わっている、そういうあり方は理想ですよね。
しかし今回のお手本にも言えることですが、仕事でも何でも、わからない人から見ると、自己主張がないのでやっていないのではないかと勘違いして、いったいどこがすごいの?ということになってしまいます。
禅ではそういう姿を枯れ切った姿として最高の境地と位置付けます。
この種の素晴らしさを知るには、自分も体感してみる他ありません。やってみると尊い境地が垣間見られる思いがします。
 
皆さんが練習しているのを見回りながら、「見せようとしていますよ。消してください。」「書くべきところはゆっくり」「呼吸が止まっていませんか?数息観の呼吸をしてくださいね。」と何度も言いました。テクニックを使った痕跡を消すにはさらなるテクニックが必要なのは言うまでもありません。それを可能にするのは数息観そのままの呼吸、つまり心身が「水」の状態でなければなりません。
 
いつも禅書道では、自分を遮るあらゆる雑念を、手本に無心に取り組むことで突き抜けて自己を顕すことを目標にしており、これこそ禅の精神そのもので、みなさんに座禅をした後と同じようにスッキリしていただきたいのですが、今回は逆にその自己を消していく作業ですから、さぞフラストレーションがたまるだろうと心配でしたが・・・終わってみると「柔よく剛を制す、とはこういうことかもしれないと感じた」とか「いつもよりずっと集中できた」「日常を見つめるきっかけになりそう」などの感想を述べておられました。
さすが!!!素晴らしい感想をいただきました。うれしかったです。
 
水を書こうとしたら手先ではなく心が水のような状態でなければならないこと、それには坐禅の呼吸で心身が調うことが大事なこと、基礎をしっかり確実にしたからこそ自然に生きられる達人の境涯があること、それらを座禅と書道から実感してより良い日常のヒントにしていただけたらうれしいかぎりです。
 
ついでですが・・・
書を学ぶとは、人類の宝である優れた書法に接する純粋な楽しみがありますが、もうひとつはそんな素晴らしい書を残した人物を普通なら伝記か何かで知るだけですが、人物そのものに時空を超えてお目にかかれる非常にドラマティックな方法なのです。と、私は解釈して皆さんにお話しています。
 
臨書するとはそっくりに書くことですが、それには自分の考えがチラついていてはできません。徹底して無心になって呼吸を合わせ、どんな速度なら、どんな強さ弱さならそうなるのか、呼吸と共に肉体の動きもそっくりならないと当然書もそっくりになりません。
その精進模索が臨書なのですが、それができた時には作者そのものになっているのですから、身体の中でその人が生きて実存しているということになります。剣道でも伝統芸能でも、「道」のつくものはそうして自分の中に手本を生きて存在させることで受け継いでいくのです。
 
これは禅の修行である公案と同じです。禅の修行には日常の修行としての数息観と、その上でさらに老師に入門し、摂心会や参禅会などでいわゆる禅問答をしながら修行していく2つの方法があります。鎌倉以降、北条時宗や上杉謙信など多くの武士階級は禅僧について禅の修行をしてきました。その問題を公案というのですが、この公案との取り組みの方法がまったく書道と同じなのです。自我を捨てて無心になって、公案という手本そのものになることで、それまでの自分を大きく乗り越える。そうして一問解くごとにひとつ心の扉を開け、新たに見えた景色に感動し味わいながら歩いていくのが禅の修行です。
 
私は禅の修行をしてみて、書道もそうした歩みをすることで、単なる習字とは違った心を磨いていく優れた面があると思いました。そこで「禅書道」を始めました。なので私の書道講座は座禅なくしては成り立たないのです。
 
さて、来月は大きい紙に「若無猶夢」と書きます。今度はフラストレーションなく思いっきり発散して下さい!無心こそ真の自己主張につながります。楽しみにお待ちしています。
26.3.15


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  • 2015.03.08 Sunday
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  • 21:35
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笠倉 玉渓
「禅フロンティア」主幹
人間禅道場にて、27年間参禅。
現在、「禅フロンティア」を主幹する他、お経をわかりやすい言葉で解説する「坐禅と写経の会」を関東7ヶ所で主催。
また、「禅書道教室」では子どもから大人まで学べる禅の呼吸で書く書道を提唱。
カルチャーセンター講師、ライター、全国で講演を行う。

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